大弥生時代

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弥生時代のクニグニ

弥生時代には日本各地で集団の統合が繰り返され、そういった地域的なまとまりは更に政治的に統合されていき、やがて数多くのクニが生まれました。 中国の歴史書『魏志倭人伝』には、卑弥呼が登場する2世紀末頃には少なくとも30余りのクニグニが存在していたことが記されています。 それを立証するかのように、近年では日本各地で地域的なまとまり(クニ)の存在を示唆する考古資料が多数発見されつつあります。 ここでは、そういった考古学的な知見から、弥生時代に大きなクニ(勢力)が形成されていたと思われる地域をちょっとだけ紹介していきます。

奈良盆地 吉備 出雲平野 鳥取平野
糸島半島 福岡平野 宇佐平野 熊本
丹後半島 濃尾平野 福井平野 野洲川流域


奈良盆地

弥生時代の奈良盆地には稲作に適した低湿地帯があり、早くから唐古・鍵遺跡をはじめとする大規模な拠点集落が多数営まれていた。2世紀末頃になると、それまでに培われてきた社会基盤の上に大規模な都(纏向遺跡)が築かれた。纏向遺跡には3世紀初頭~後半頃に築かれた全長100m前後の古墳が点在しており、いずれも同時期の古墳としては全国最大級の規模である。邪馬台国が何処に存在していたにせよ、当時の日本の政治・経済の中心地はこの奈良盆地であった可能性が濃厚である。

吉備

古代の吉備は海岸線が現在よりも遥かに内陸まで迫っていたため、港町として瀬戸内海を介した遠隔地との交易で栄えていた。当時は今の吉備津神社付近まで海が迫っており、「吉備の中山」は、瀬戸内海に浮かぶ島か半島だったと考えられている。港湾的なムラであった上東遺跡が古代吉備の玄関口であり、津寺遺跡や楯築遺跡などがある足守川流域の地域が邪馬台国時代における吉備の王都圏であった。又、百間川遺跡群では当時の広大な水田跡も発見されており、多くの人口を養うだけの食料生産力も兼ね備えていたことが窺える。

出雲平野

出雲では弥生時代中期の神庭荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡などから多量の銅剣や銅鐸が出土しており、大きな勢力(クニ)の存在を裏付けている。更に、当時の出雲平野には神門水海と呼ばれる内湾が広がっており、良港としての条件を備えていた。北九州や北陸、朝鮮半島などとの交流を思わせる考古資料が豊富に出土しており、遠隔地との交易を通じて繁栄していた様子が窺える。又、弥生時代後期に出雲で流行していた四隅突出型墳丘墓は鳥取や北陸といった日本海側各地でも広範囲に築かれており、出雲勢力の影響力の強さが窺える。

鳥取平野

弥生時代の山陰といえば出雲ばかりが注目されがちだが、鳥取平野(因幡の国)でも大きなクニの痕跡を示す遺跡が多数発見されている。特に湖山池(日本一大きな池)の南岸・東岸は遺跡の宝庫であり、拠点集落であった岩吉遺跡やその分村などが多数存在する。そういった集落遺跡と密接に関連すると考えられている他の遺跡として、高住銅鐸出土地、西桂見遺跡、桂見墳墓群、布勢鶴指奥墳墓群などがあげられる。そういった遺跡の存在は、弥生時代後期にこの湖山池南東岸周辺に大きな勢力(クニ)が存在していたことを物語っている。

糸島半島

糸島市は多くの研究者たちから魏志倭人伝に記されている伊都国の比定地として確実視されている。なかでも糸島市三雲を中心とした平野の地域が伊都国の中枢エリアであったとする説が有力である。弥生時代中期後半から終末期にかけて、三雲南小路遺跡・平原遺跡といった王墓が連続して営まれている。そういった市内の遺跡からは大量の銅鏡が発見されており、その数は他地域と比べても群を抜いている。更に、舶来の楽浪系土器、文書外交に必要な硯なども出土しており、大陸との交易で大いに栄えていた様子が窺える。

福岡平野

現在の福岡市や春日市などにあたる福岡平野一帯は多くの研究者たちから後漢書東夷伝や魏志倭人伝に記されている奴国の比定地として確実視されている。市内には、弥生時代の集落や水田跡、大量の甕棺墓や青銅器工房跡などが出土しており、魏志倭人伝に二万戸と記されている国の威容が窺える。更に、舶来の楽浪系土器、文書外交に必要な硯なども出土しており、大陸との交易で大いに栄えていた様子が窺える。弥生時代中期には須玖遺跡群が、後期以降は比恵・那珂遺跡群が奴国の中枢として繁栄していたとみられている。

宇佐平野

駅館川流域は弥生時代~古墳時代の長期間にわたって宇佐平野の中心地として栄えていた。弥生時代中期の大規模環濠集落である東上田遺跡や、その集団墓地と思しき野口遺跡がある。その他、別府遺跡、上原遺跡、小向野遺跡からは、銅鐸や銅鏡などの青銅器他、多数の遺物が発見されている。こういった遺跡群の存在から、駅館川流域には弥生時代のほぼ全期間にわたって有力な勢力(クニ)が存在していたことが窺える。古墳時代前期からは赤塚古墳のような出現期の前方後円墳を含む古墳群(川部・高森古墳群)が築かれ始めた。

熊本

熊本県では弥生時代後期から鉄器が盛んに使用されていたようであり、その時期の鉄器出土数は日本最多を誇っている。特に阿蘇山を中心として鉄製武器が多く出土する大規模環濠集落が密集しているため、邪馬台国時代には阿蘇山麓で豊富に入手できる阿蘇黄土(リモナイト)を原料として既に製鉄を行っていた可能性も指摘されている。又、菊池川流域、白川流域、緑川流域においてもそれぞれ拠点的な大規模集落の遺跡が発見されており、大きな勢力(クニ)の存在が窺える。土器に関しては免田式土器が特徴的である。

丹後半島

弥生時代の丹後半島には大きな勢力(丹後王国)が存在していた痕跡がある。弥生時代中期後半~古墳時代初頭(邪馬台国時代)にかけて大型の墳丘墓や墳墓群が多数築かれ、そういった遺跡からは大陸との交易で入手したと思しき鉄器やガラス製品などが多量に出土している。又、丹後国一之宮・籠神社では、宮司家の海部氏によっておよそ2000年の長きに亘り2面の銅鏡(前漢鏡と後漢鏡)が神宝として代々厳重に伝えられてきた。そういった資料は、古代丹後王国の系譜を海部氏(籠神社の宮司家)が受け継いできたことを裏付けている。

濃尾平野

濃尾平野では、弥生時代中期までは大規模集落・朝日遺跡がその中心地として栄えていたが、中期後半頃から気候変動の影響(降雨量の増加)などによって住環境が大きく変化し、後期以降は一宮市に広がる荻原遺跡群が中心地となる。邪馬台国時代にはその荻原遺跡群を中心に一つの文化圏(もしくは勢力圏)が形成されていた痕跡がある。具体的には、濃尾平野特有のS字甕や前方後方墳は東海地方各地で広範囲に普及しており、この地域に存在していた勢力の影響力の強さが窺える。

福井平野

福井平野では弥生時代中期の段階から首長墓が築かれており、地域勢力の存在が窺える。弥生時代の遺跡・墳丘墓が特に集中している地域は、福井市の九頭竜川流域と、鯖江市の日野川流域である。なかでも邪馬台国時代(3世紀頃)の中心だったと見られるのは、林・藤島遺跡や多数の墳墓群などが存在する九頭竜川流域である。多数の鉄製工具、鉄剣類、鍛冶場跡、環濠集落跡、宝石(翡翠など)の加工工房、などが発見されており、大きな勢力(クニ)の存在が窺える。

野洲川流域

琵琶湖の南岸にあたる野洲川下流域の地域には多くの弥生遺跡が密集しており、当時から湖上運送される物資の中継・集積地点として栄えていたようである。弥生時代中期には大規模環濠集落である下之郷遺跡が中核的なムラとなって繁栄していた。大岩山遺跡では24個もの銅鐸が出土しており、銅鐸祭祀も盛んであったことが分かる。更に、弥生時代後期後半には伊勢遺跡、下長遺跡、下鈎遺跡といった大規模集落からなる伊勢遺跡群が繁栄していたようであり、大きな勢力(クニ)の存在が窺える。土器に関しては受口状口縁の甕が特徴的。

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